【大阪市西成区】橿原神宮で執り行われた空母「瑞鶴」慰霊祭で、西成発シンガーソングライターのNISHIOKAさんが鎮魂歌『不滅の絆』を奉奏しました
奈良県橿原市の橿原神宮で2025年10月25日、太平洋戦争で沈没した航空母艦「瑞鶴(ずいかく)」の戦没者を追悼する「軍艦瑞鶴戦没者並びに物故者慰霊祭」が営まれました。秋の柔らかな陽ざしの下、遺族や関係者、一般参列者が「瑞鶴之碑」前に集い、静かに祈りを捧げました。

式典では、斎主が祭詞を奏上し、巫女による神楽「浦安の舞」に続き、元乗組員が肉声で瑞鶴沈没の状況を語るテープも披露されました。午後2時14分には「瑞鶴」が沈没した時刻に合わせて大正琴で「海ゆかば」が演奏され、参列者全員が黙祷を捧げました。

その後、西成を拠点に音楽制作をしているシンガーソングライター・NISHIOKAさんが、2016年に発表した自身の作詞作曲による鎮魂歌『不滅の絆』を7年ぶりに奉奏し、語りかけるような歌声とアコースティックギターの音色を響かせました。楽曲には、戦友の深い絆、そして平和への祈りが込められています。

NISHIOKAさんは、瑞鶴に整備員として乗艦し、生還した西岡稔さん(故人)の孫です。慰霊祭終了後に遺族や関係者、新聞記者の人々と話し込みながら、楽曲を制作した頃のエピソードを思い起こしていました。瑞鶴会の世話人を務める叔母の松木祥子さんから追悼イメージソングの制作を提案されましたが、NISHIOKAさんは「小さい頃に祖父から、戦争は絶対にやったらあかん、とよく聞かされましたが、戦争のことを一から百まで詳しく聞かされていたわけではなかった」といい、曲作りをためらう気持ちもあったそうです。

しかし10年前の慰霊祭で、乗組員だった田原徳雄さん(故人)から直接話を聞いたことが大きな契機となりました。「田原さんは、亡くなった友達のことを思うと、ついこないだのことのようにも思うし、こんなに年月が経ってるねんな、とも話されていて、涙を浮かべておられました。その姿を見て、なるほど、家族のような存在だったんだなと、そこからインスピレーションが湧いて『不滅の絆』というタイトルの曲が生まれたんだと思います」。慰霊祭に参加していた田原徳雄さんの長男・由夫さんは「初めて会えて、歌も初めて聴きました。感激しました」と話していました。

さらにNISHIOKAさんは「幼い頃、おばあちゃんに連れられて、西成の弘治小学校近くの立ち飲み屋に、なかなか帰ってこないおじいちゃんを迎えに行くことがしょっちゅうで。酔っ払いながら、戦争を一緒に経験した仲間とアカペラで手拍子を打ちながら『同期の桜』などの軍歌を歌っていて、家族のような間柄なんやな、といつも感じていました。こうして皆さんと話していて、あの時の情景を思い出します」とも話していました。

毎年東京から参列しているという男性は「祖父から戦争の体験をよく聞かされていました。不滅の絆のCDを持っていますが、今回NISHIOKAさんの声と演奏を聴いて、いい歌だなあ、と改めて感じました」と話していました。

航空母艦「瑞鶴」は1944年10月25日、フィリピン沖のレイテ沖海戦で連合軍の攻撃を受け沈没しました。1981年には生存者らの手によって橿原神宮境内に慰霊碑が建立されて以来、毎年10月25日に慰霊祭が行われています。橿原神宮によると今年は過去最多となる150人が参列したとのことです。瑞鶴之碑が建立する若桜友苑の空の下、世代を超えて受け継がれる平和への絆が静かに響いていました。

「戦争に行った人たちの想いや、家族と同じぐらいの深い心で結ばれる絆があるということ。この鎮魂歌をこの慰霊祭で歌うことで、戦争を実体験した方々の話を直接聞くことが無い子どもたちの世代に、自分なりの伝え方で、伝えていきたいと思っています」と語る、6歳と4歳の女の子の父・NISHIOKAさんは、音楽を通して記憶と願いを手渡そうとしています。
橿原神宮の境内にある若桜友苑はこちら↓





